東京五輪が決まったことはやはり嬉しくもあるのだが、やらなければならないことも立て込んで、どうしても爽快な気分にはなれないでいる。その理由は三日月とももが仲よくなれないから、というのもあるけれど。
安倍首相は全世界に向けて「福島の汚染水問題を責任もって解決する」と宣言したが、結局、日本でいうところの責任とは何なのだろうか。
昨日検察は東電幹部、原子力安全委員会の幹部、当時の民主党政権幹部に対して、原発事故の責任を問わない決定を下した。
巨大地震と津波が人間の想定を超えることは当たり前だ。なぜならそれが自然なのだから。想定を超えていたからこの人たちに責任はないのか。そもそも人の上に立ち、公職について社会に仕える人たちの責任とはどのようなものなのか。想定できない局面にぶつかったとき、リーダーはどう責任をとるべきなのか。私たちはどういう社会を望むのか。そうした話は私の知る限り、テレビにも新聞にも皆無に思われる。
これが日本における責任という言葉の意味なのである。であれば、安倍首相の言う責任も同じ程度の重みと考えるのが妥当であろう。
2020年までに汚染水問題を解決することに責任を持つというのならば、2011年3月からここまでに起こったことに、まず責任を持てと言いたい。
誰の責任も問わないまま、国家予算を投じることに誰も違和感を感じないのか。少なくとも国家予算を投じるのであれば、東電の経営責任を問うべきであろう。東電は破綻させ、国が全責任を持って、安全と電力供給を保証すればいい。官邸はそれぞれのオプションに対して、メリットやデメリットを分析しているだろう。だがそういう性格の問題ではないのだと思う。
責任とは社会の道義、柱に直結した言葉であり、概念であるべきである。それを曖昧にする社会ではだめなのだ。社会の道義は経済的な便益よりも優先されなくてはならない。それがなくては社会は保てないからである。IOC総会での宣言によって、日本において責任という言葉の意味が変わる。そういうことを期待している。中也の詠う浜辺に落ちていたボタンとは僕に言わせれば日本のことである。