広告を批評するときには「時間」という補助線を引いてみることが重要だ。

新年あけましておめでとうございます。本年もマーケットインサイトとアナリティクスを通じてより幸福で暮らしやすい社会を創ることに貢献していきたいと思います。皆様、どうぞよろしくお願い致します。

さて新年早々にとある企業広告が批判の対象になっています。その広告とは西武・そごうによる「わたしは、私」というものです。(パーマネントリンクが変更されて、2020年版の広告が表示されていますが、この原稿は2019年1月の広告表現を対象に書かれています。ご了承ください。)

わたしは、私。|西武・そごう

大逆転は、起こりうる。 わたしは、その言葉を信じない。 どうせ奇跡なんて起こらない。 それでも人々は無責任に言うだろう。 小さな者でも大きな相手に立ち向かえ。 誰とも違う発想や工夫を駆使して闘え。 今こそ自分を貫くときだ。 しかし、そんな考え方は馬鹿げている。 勝ち目のない勝負はあきらめるのが賢明だ。 わたしはただ、為す術もなく押し込まれる。 土俵際、もはや絶体絶命。 …

広告コピーやその演出方法など、多く方々のテキストがこの広告について賛否両論を展開しています。ぼくもこのコピーやビジュアル構成などについて一定の意見はありますが、ここでは少し違う観点でテキストを構成していきたいと思います。

一言で言えば「時間」の課題です。広告というものは概ね以下のようなものとして規定できると思います。

➊商品、サービス、企業、理念など何等かの対象の普及を目的とするもの
➋上記の広告対象を購入もしくは受容する比較的多くの人々にリーチすることを目的とするもの
➌広告出稿期間は多くの場合、数日から数週間を一区切りとするため、効果は短期的なもの

広告の可能性は決して小さなものとは思いませんが、基本的に「商品やサービスを比較的短い時間軸のもとそれを求める出来る限り多くの人々にその価値を適切に伝える」のが使命です。つまり広告は文字通り「いま、このとき、なるべく多くの人に」伝えることに特化したコミュニケーションの形態なのです。

企業広告は企業を主語として商品やサービスを提供する考え方や理念を伝えるものですが、その目的はあくまでも提供する商品やサービスについての理解を深めてもらうためのものです。アドボカシー広告というジャンルもあります。こちらは意見あるいは態度を表明することが求められるイシューに対してステークホルダが行う広告と言えるでしょう。

今回、西武・そごうが扱おうとしたのは「女性が女性であるがゆえの不平等を感じない社会の実現」という極めて難しい概念でした。このテーマについていろいろな意見を表明することは大切だと思いますし、その不平等を無くしていくためにアイデアを出し、アクションを創っていくことが大切だと思います。
しかしこのテーマは短い時間軸ではなく、数年から数十年の時間を必要とする息の長い行動を求めるものです。つまりこのテーマを扱うのに「広告」は適当ではないのです。

西武・そごうの重要な顧客は女性であることから、女性に共感してもらえる企業である、というパーセプションを醸成するためにこの広告を企画したことは容易に推察できます。
しかしこうしたパーセプションはより具体的で息の長いアクションによってこそ醸成されるのであり、広告によって醸成されるものではありません。
西武・そごうは、まず自らが「女性が女性であるがゆえの不平等を感じない企業であるという事実」とともに、そうした社会づくりに参画していく姿勢を提示するべきでした。
所謂CSV(Creating Shared Value)共有価値の創造によって、経済的なリターンを確立するという姿勢が必要でした。

そこで醸成されたイメージが蓄積されてブランドになっていくというのは事実であったとしても、広告は基本的に短い時間軸でのコミュニケーションに向いたものです。広告を制作し出稿する仕事に携わる人はそのことを今一度思い起こすべきでしょう。

参考書籍と言えばやはりこれですね。
ジェームズ・R・グレゴリー著
『企業ブランド強化の経営戦略』(日経広告研究所/日本経済新聞社)
『企業イメージと経営戦略』(日経広告研究所/日本経済新聞社)

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