J.ハイトの6つの道徳基盤のうち、自由と権威はいずれが重要なのだろうか。

香港での市場調査

 2019年にぼくが手掛けたプロジェクトのひとつは日本の食料品の海外広報である。具体的には日本酒を香港に浸透させるというのがそれである。日本酒を香港で、と聞くと不思議に思う向きもあるかと思うが、日本酒の輸出額は米国が最も多く、それに次ぐ市場が香港なのである。

そんな仕事に取り組まねばならないタイミングで香港では当局と市民との激しい対立と衝突が起こった。中国政府当局、警察と学生を中心とした市民の激しい対立は周知の通りであろう。私はこの数か月で数回香港を訪れた。当初週末一部の地域で行われていたデモは次第に拡大されている。観光客やビジネスマンが接する限定された範囲では平穏と言えるかもしれないが、これは内戦状態の様相である。中環(セントラル)の金融街を結ぶ陸橋など街のあちこちに対立の痕跡が残されている。

ちょうど別のプロジェクトで倫理観に関する調査分析をアップデートするという課題を抱えていた筆者はその観点で香港での混乱を捉えることになった。市民が本質的に目標にしているのは「自由」である。香港の市民は西洋的な個人主義を前提とした教育を受けている点で平均的な中国の市民とは思想的な基盤が異なると思われる。その市民が重要な道徳基盤として掲げているのは端的に言えば「自由」だと思うのだ。中国当局は香港という、英国統治という特殊な歴史を持つ都市の特殊性を認めない立場でこの「自由」を奪おう、あるいは制限しようとしており、それに市民が強く反発しているのである。

ジョナサン・ハイトの6つの道徳基盤

 米国の心理学者ジョナサン・ハイトはその著書『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の中で「道徳基盤」について論じた。人間は生来個人的あるいは社会的な善についての直観を持っており、それらは「ケア」「公正」「忠誠」「権威」「神聖」「自由」の六つに類型化でき、この道徳基盤の差異こそが根本的な対立の要因とハイトは考えるのである。リベラル(左派)は「ケア」「公正」「自由」を重視し、「忠誠」「権威」「神聖」を重視しない。他方、保守(右派)は六つをバランスさせることを望む。左派は上述の三つの道徳基盤の受け皿にしかなり得ず、右派は直観に訴えれば六つの道徳基盤にいずれかに届く。リベラルが保守に敗れ、世界が右傾化するメカニズムがこれである。

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 左派と右派の対照は、個人主義(自由、平等)と集団主義(権威、伝統)とも解釈できる。さらにハイトは個人主義を猿、集団主義をミツバチに喩えるのである。近代経済学において人間の行動の九割は利己的な「猿」のメタファーで説明できる。集団的また利他的な「ミツバチ」のメタファーは何かの拍子にスイッチが入ることで発動され、人間の一割を占める。ハイトの言葉によれば「私たちの遺伝子には、ミツバチスイッチが埋め込まれている」のである。

自由と権威、どちらが尊いか

 香港における当局と市民の対立をハイトの理論から考えてみると新たな光景が見えてくる。近代的な自己にとって、幸福を獲得する、換言すれば経済的な利益を獲得することは極めて重要で、そのために「自由」が確保されている必要があり、それを脅かそうとする存在が批判されるのは当然である。他方、ミツバチスイッチが入った集団にとって「権威」は「神聖」を伴い、それへの「忠誠」を強化する。集団内では利他的な精神が働き、集団外の利己的な個人を攻撃することに躊躇はなくなる。利他的な人間から見れば、利己的な人間は敵であろう。繰り返すが、個人主義も集団主義もその背後にはハイトが分析した強い道徳基盤を持っている。だからこそ、対立は激しくなってしまうのだ。

 中国当局による市民への暴力や迫害、人権侵害は当然批判されるべきである。それを認める道徳的基盤はない。国際社会は平和を破壊する構造的な暴力を全力で排除する必要がある。一方で集団主義や伝統主義を完全に否定することが私たちに可能なのかどうかについても今一度考える必要がある。中国当局も市民もそれぞれの道徳的基盤の上に立っているからである。倫理や道徳とはどうしようもなくパラドクシカルである。これは単純な正解を持つパズルではないのである。

 異なる道徳基盤の上に立つ個人主義と集団主義の闘争は自由と権威の闘争でもある。暴力を伴う闘争は単純に批判されるべきであるが、自由と権威の闘争に関して、悲しいことに私たちは簡単に答えを見出すことはできない。自らの問題として心と身体に痛みを感じながら、それでも決して絶望することなく向き合っていくしかないのであろう。

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